「山中に暦日なし(さんちゅうにれきじつなし)」
- 並木 泰淳
- 2 日前
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更新日:52 分前
この禅語は『唐詩選』巻六に収録されている『人に答う』という題の詩から抜粋された語です。作者は太上隠者と記してありますが、詳しいことはわかりません。なぜなら隠者ですから。しかも「太上」とは最上という意でありますから、世間から遠く離れて俗臭が抜け切った隠者と推測することができます。
『全唐詩』には本詩の背景が記されています。
『古今詩話』に云う、太上隠者は、人、其の本末(ものごとの基礎)を知る莫し。
『古今詩話』に以下の記述がある。太上隠者は自らの出自や経歴を知らない。
好事(もの好き)の者、従いて其の姓名を問う。答えず。詩一絶を留めて云う。
ある物好きなひとが、太上隠者に姓名を問うが、隠者は答えなかった。そして詩(絶句:起承転結で構成されるもの)を書き留めて渡した。
自らの姓名からをも離れて暮らす様が、以下のように詠われています。
偶々松樹の下に来り(たまたましょうじゅのしたにきたり)
たまたま山中を散策して松の木の下へ通りがかったところで、
枕を高くして石頭に眠る(まくらをたかくしてせきとうにねむる)
石の上に、枕を高くして深く寝入ったところだ。
山中に暦日無し(さんちゅうにれきじつなし)
山中の生活には俗世間の暦などもないので、
寒盡くるも年を知らず(かんつくるもとしをしらず)
冬が過ぎ春になりかけたようだが、今年が一向にわからない。
中国暦(太陰暦)の新年の頃、2月はじめの季節の歌だと推測します。そろそろ春節であろうが、元号が変わったことも知るよしがないといったところでしょう。過去や未来に憂いを浮かべることもなく、ただ今だけに心を満たして生きていけたひとなのでしょう。
もの好きな人が太上隠者に姓名を問いますが、隠者が答えなかったくだりに注目をしましょう。私たちは人やものなど全ての事象に名前をつけて、社会生活を営みます。当たり前に行なっていることですし、ものに名前がついていなければ不便で仕方がありません。ものに名前をつけることで価値が創出され、他のものと比べるようになり、そこに経済が生まれるわけです。けれど、その価値に執着することで、ひとには欲が生まれ、人によっては欲を止めることができなくなり、得ることができない苦しみを味わいます。
ここの喉が渇き水を求める苦しみのような状態を渇愛と呼びます。この苦から逃れるためには、自分はこういうものだなどという執着から離れることが必要です。
私たち臨済宗の僧堂生活では、姓名を使わず、たった一文字をとって「孝さん、泰さん」などと呼ばれます。出自や経歴などは問われず、ただ今のことだけに集中するためです。個性がなくなったつまらない集団生活のようになりそうですが、そうではありません。
我欲を捨て心が満ち満ちて、僧堂全体に他者への思いやりが自然と生まれます。この有り様を山水に例えて、たくさんの禅語が生まれるのです。この詩では太上隠者も山水の構成要素のひとつになって、静寂ながら心が満ち満ちる諸行無常の世界を形作るのです。
この山水の静寂さを別の形で表したものが茶の湯です。茶室では帯刀をゆるさず、客人はみな平等です。自然物でつくられた粗末な小さな茶室で、客人が肩を寄せ合い、一心に湯を沸かす釜の音、竹を工夫してつくった茶杓や茶筅を心ひとつに扱う亭主の手元に心を満たしていきます。もてなされた茶の温かみ、味わいを一心に味わうとき、未来・過去を思わず、今この時だけ生きることができるのです。






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